大きくなったら

 物心ついた時から、ませただった。

「ママ、ぼくにもやらせて」

「卓也がもう少し大きくなったらね」

 母親に限らず、こんなやり取りは何度してきたかしれない。

 大人の世界に憧れ、そのたびに子供だからとあしらわれる。

 同年代の男の中で一際背が低かったのも、俺が子供扱いされる一因だったに違いない。

 

 14歳の時、初めて女性に告白した。

 好きになったのは、社会科の非常勤講師だった。

 夏休みの終わりとともにやってきた彼女は、憂鬱な始業式の中でただ一人、雨の中の紫陽花のようにきらめいていた。

 まだ20代前半で、社会全体からみれば半人前の若者といったところだろう。それでも、当時の俺にとって彼女は、色気のある大人の女性だった。

 毛先を内側に巻いた黒髪に、クラスの女子よりもう少し膨らんだ胸に、時折見せるなんとも形容しがたい女の顔に、その時の正直な気持ちを表現するならば、興奮した。

 若くて美人な彼女に、クラスの派手な奴らが山猿よろしくちょっかいをかけるなか、俺は回り道を選んだ。 

 とにかく熱心に彼女の授業を受け、中間テストこそ振るわなかったものの、期末テストでクラス最高得点をたたき出してやった。

 最高得点は俺と鮎川の二人だったが、鮎川は全教科でトップを獲る秀才が故に、彼女の注目はそれほど勉強が得意でない俺に向けられるはずだ。

 彼女を狙う山猿たちにこれほどのガッツはないし、鮎川がたとえ彼女に興味を持っていても、性格上それを表に出すことはない。俺の戦略と、努力の勝利だった。

 テスト返却だけの授業が終わると、各々が点数発表に興じる机の間をすり抜け、俺は教壇の彼女のもとへ向かった。

「岩田君、今回すごかったね。先生びっくりしたよ」俺に気が付くと彼女は微笑んだ。

「なのか先生の授業が好きなので、いい点とれました」なのか先生などとは一度も呼んだことがなかったが、そう呼ぶ奴らに倣って勢いで言ってしまった。

「そう言ってくれると嬉しいな。3学期もこの調子で頑張ってね」彼女は教壇の上のノート類をまとめると、唇の端を上げて、教室を後にする。

 その後ろ姿をぼけっと見送りそうになり、慌てて彼女を追いかけた。本当の目的を果たすためだ。

 廊下を歩く彼女を呼び止める。振り向いた瞳に向かって間髪入れず言った。

「今日、門のところで待ってます。話があるんです。仕事終わったら来てください」

 彼女は一瞬、目線だけで周囲をうかがい「わかった」と頷いた。

 

 告白だと勘付いただろうか。それならそれで構わないが、告白を避けるために彼女が来てくれないかもしれないという不安がよぎった。以前そのような体験をした友人の話も聞いていた。彼女が正門から帰宅するのは知っていたが、裏門から迂回する可能性もないとは言えない。

 緊張と不安と寒さで腹が痛くなりそうだった。胃薬を飲むべきだったと、暗い正門に佇み後悔していると、職員玄関からそれらしき人影が出てきた。

 黒のコートを羽織っているため服装からは判断がつかなかったが、オーラが彼女だった。好きな女であればそれくらいはわかる。

 彼女のほうも俺に気が付き、小走りで来てくれた。

「けっこう待ったでしょう。寒くなかった?」

「大丈夫」白い息が無様に吐き出された。

 こっちいいですか、と彼女を告白の舞台まで連れていく。場所はかなり前から決めていた。正門を左に出て、学校の敷地沿いに進む。校舎を囲む高い塀と民家にはさまれた細い路地だ。ここを通って帰宅する生徒もいて、俺もその一人だが、この時間であれば誰かに見られる心配もない。早帰りの日を狙ったのもそのためだ。

「急に呼び出してすみませんでした」彼女の様子をうかがう。

「うん、びっくりしたよ。どうしたの?」彼女は心底驚いた顔をしている。

 この状況でこれから告白されると思わない人間がいるのだろうか。中学生なりに疑ってみたが、彼女の表情をみるとわからなくなってしまった。

「なのか先生に伝えたいことがあって」男らしく告白しようと決めていた。

「先生だったから、テスト頑張ってやって」彼女より背が低いことが情けなかった。

「ずっと先生が好きだったんです付き合ってください」目を見て言えたのだろうか。それすらもわからなかった。

「……ありがとう」彼女は俺の目を見ていた。

「岩田君が先生の授業すっごく一生懸命聴いてくれてるのは知ってたし、いい子だなって思ってた。」

 あ、だめなやつだ。続きは聞かなくてもわかった。

「……でも先生は先生だし、岩田君は生徒だから、そういうのはもう少し大人になってからかなと思うの」

 まただ。こんな、大人になりたての人にさえ言われてしまう。そもそも大人ってなんだよ。20歳以上のことか。じゃああと6年たったらいいの?先生は俺のこと好きだけど20歳じゃないからだめってこと?それとも……

「都合のいい口実ですか?」

 先生が何か言おうとする前に「すみません」とだけ残し、走りたい気持ちを抑え、家路を急いだ。

 一度だけ、曲がり角で未練がましく振り返ると、先生は右腕を高く上げてさっきの場所に立っていた。ほとんど夜につつまれた彼女を眺め、手を振っているんだとしたら舐めてやがるな、と自嘲的に笑った。

 その後はお察しの通り、俺の社会の成績は元通り、平均以下に落ち着いた。

 なのか先生はといえば、非常勤ということもあって、たった半年で学校を去っていった。

 

「ごめん、何の話だっけ?」当然聞いていたが、意地悪く聞き返す。

「ねえ、ちゃんと聞いてよ! 受験終わったらデートしよって言ったの!」白のブラウスに、膝上までのスカートを穿いた女子生徒は、周囲を気にする素振りもみせない。

「声がでかいよ。ここ塾だから」立場上、たしなめる。

「ねえいいでしょ!」食い下がる女子生徒は健気で、少しだけ揺れる。

「俺が……」言いかけて口を閉じる。

「阿部がもう少し大きくなったらな」

「先生だって大学生じゃん。子供じゃん」

「大学生じゃなくて大学院生。しかも阿部が来年高校生になったら俺社会人」

「大人大人って、ずるいなー」女子生徒は不満げに下唇を突き出して、友人と帰っていった。

 その姿を見送りながら、心の中で謝罪する。

 いい子だけど、犯罪だろ。

 

 あの道を通る気になったのは、女子生徒の言葉で10年前の自分を思い出したからだった。あれ以来、あの路地を通るのをなんとなく避けていた。アルバイト先の塾から家への経路も、本当はそこを通ったほうが近いのに、無意識に別の道を選んでいた。

 真夏とはいえ21時を過ぎているため、月明かりだけが頼りの路地は、あの日までとは言わずとも、暗く静まり返っていた。

 だから、見逃す可能性は十分にあったし、それを見つけられたのは偶然以外のなにものでもなかった。

 10年前、彼女に想いを伝えた場所、そこにそびえたつ塀の、ちょうど俺の目線と同じ高さに、落書きらしからぬ落書きがあった。

 

 私がもう少し若かったら

 

 字が震えているのは、泣いていたからだろうかと期待したが、すぐに違うと分かった。

 彼女の身長でこの高さに文字を書くなら、台のようなものに上るか、背伸びをして腕を目一杯伸ばさなければならなかったはずだ。

 

 俺もでっかくなったもんだな。

 仄かに月明かりが照らす夏の夜道は、あの日と違い暖かかった。